国際社会においても。
同じ民族、同じ言語同士でも、親子間でも伝わらない。
(さっき、上娘に「おかあさんとの会話、コミュニケーション不可能」と言われた・・・)
根底に、相手をわかろう、お互いに理解しようという気持ちがないと難しい。
ずいぶん前、サンディエゴ(アメリカ)に、ほんの短期間滞在したとき、
わたしは、自分はこの国では、人並みに達しない人間だと実感した。
地域に、なんのかかわりもない人間である、わたしのコミュニケーション能力のなさに対する、地元の人々のリアクションに、
自分は、プライドのカケラも持てないと、ひしひしと感じた。
そして、世界中のどこの国においても、自分は言語が使えない、絶対的ハンディのある人間だと思った。
つまり、母国語しかちゃんと話せない、コミュニケーションがとれない。(あ、母国語も話しベタ・・・)
ちいさい、ちいさい島国でしか生きることができない。
たとえ、海外に出ても、即、日本に引き返してこなければ生きていけない、まったく自立できない人間である。
ということで、英語なり、なんなり、言語を、母国語以外に習得することは、すばらしい。
仕事につながれば、なおよし。
直接つながらなくても、自分のために、悪いことはない。
資料を読むにも、ニュースを知るのも、
世界の出来事を直接、日本のメディアを通さず入手する必要性を強く感じる。
(日本を経ると、意図的に操作される恐れがある)
その意味においても、生きた英語は必要だ。
ぜひぜひ、頑張ってもらいたいものだ。
・・・と、他人事のようなわたしは、もはや蚊帳の外。
黄金のオールドアワーに棲息する人間は、
日本語しか話さない、読まない、話せない、読めない、聞けない、
いや、最近では日本語すら、聞こえなくなってきてい